妙蓮寺について

大内義隆の家臣に原田右衛門之尉道信が大永三(一五二三)年仲秋京に上り本願寺九代賓如上人に竭し剃髪して法名釋道信を賜り、實如上真筆六字の尊号を頂き、この蒲生野の地に一字を創草する。
道信天分十二年十月九日八十三歳にて往生。

当時の開基とされている道信は原田家系図にもその名を見るから実在したものだろうが、信仰集団のリーダーであって、本当の意味での妙蓮寺(真宗としての)出発は五代目浄誓の代・寛永年間である。隆盛であったのは八代目祖嶺の時代・後妻に萩本藩々主の側室(毛利伊賀守の生母)貰い、そのため引幕は一に三つの星の紋を用いることを許されている。

寺号免許となったのは寛永十五(一六三八)年。
十四代薩雲は寺社奉行直触を勤め幕末僧侶隊などの記録を含む「薩雲一代見聞記」を残している。

十六代知象は明治三十一年ハワイ開教使を命ぜられハワイ開教最初の派遣としてハワイ全島を巡回しホノルル、ババルニア説教場を新築する。
明治三十六年七月北米サクラメント駐在申付けられ布教の傍ら日本移民保護日本児童教育に貢献しサクラメント日本人小学校を創立する。
帰国後、明治四十二年鹿児島別院輪番。大正元年仙台別院輪番。
大正十一年四月十七日、日曜学校を創立する。

十七代能諭は学校法人まこと学園安岡幼稚園を創立し、まことの保育に尽力する。平成十三年四月勲五等双光旭日章受章。

十八代得一は昭和四十六年佐賀・神崎千代田の妙専寺より入寺し「開かれたお寺づくり」をめざして今日の妙蓮寺の興隆の尽力し住職一代の中、本堂屋根の改修、庫裏の改築、境内の石碑等の整備等を果たす。

長谷山妙蓮寺
歴代住職

歴代住職往年月日西暦
道信天文十二年十月九日一五四三年
道正文禄二年十月二十五日一五九三年
道恵寛永四年七月一日一六二七年
浄恵正保二年十一月十五日一六四五年
浄誓寛文十年十月三日一六七〇年
教安延宝四年三月四日一六七六年
了春天和二年四月二十七日一六八二年
祖嶺延享二年十二月三日一七四五年
雪江宝暦五年七月十七日一七五五年
凍海安永九年十一月九日一七八〇年
十一素嶺文化二年二月一日一八〇五年
十二廓然文化十一年二月十五日一八一四年
十三隆宝文政四年四月二日一八二一年
十四薩雲明治七年九月二十三日一八七四年
十五宗鵬昭和十一年三月十七日一九三六年
十六知象昭和十一年十二月二十二日一九三六年
十七能論前久住職
十八得一平成十七年八月六日二〇〇五年
十九得立現住職