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(本願寺山口別院 山口教区教務所)

私が転じられる 2013/12/4

本願寺派布教使 浅野俊榮 

 あるテレビ番組の中で、出演者に「宇宙人はいると思うか」という質問がありました。出演していた殆どの人が、「いると思う」と回答しました。最近は宇宙に関する研究が進んで、その情報が一般に多く報じられていますので、その様に考えるのでしょう。
私の子供のころは、蛸のような火星人が空飛ぶ円盤に乗って地球を襲ってくる映画があった様に記憶しています。今では逆に火星に探査機を送り込んで、地形の写真や水の存在、生命の痕跡等を探って、その情報を地球に送ってくる世の中になりました。

 一般にいう宇宙人とはどんな姿をしているのでしょうか。高等な知識と科学技術を持った二足歩行の生き物、それとも猿の惑星という映画の中の猿の様な生き物でしょうか。きっとその星の環境によって、私どもの常識を超えた姿をしているのでしょうが、どうしても私どもは、人間の様な姿の宇宙人というものを想像してしまいます。それが私どもから抜けきらない「ものの見方」だと思います。

 親鸞聖人が仰せの「悪人」とは、阿弥陀様の願いを邪魔する者のことで、世間の法や道徳を破る犯罪者等を言うのではありません。私どもは自分を「悪人」とは思っていませんが、自分自身や科学を確かなものと固く思い込んで、阿弥陀様やお浄土の有無を論じ、無宗教を誇りとし、仏教の正しい教えを誹謗して、阿弥陀様の願いを蔑ろにしています。そうしている私どもを「悪人」と言われ、その状態を無明とも迷いとも教えられるのです。私どもが「悪人」であることに気づくのは、正しく仏の教えを聞いていくところに、初めてなされることなのです。

 私どもは、阿弥陀様の願いを聞かされて自分の在り様を知り、「悪人」であることに気づいて、自分の力では悟りに至りえない存在であることに目覚めるのです。それを悟りとも言い、ご信心とも言い、南無阿弥陀仏のはたらきに救われたことを意味します。
私の経験では、外国に行っても自分が外国人であるとは思えません。どこまで行っても意識は日本人ですが、行き先では外国人なのです。宇宙人についても、広大な宇宙の中に宇宙人を探しますが、自分が宇宙人であることは全く意識の中に在りません。それと同じ様に、私は善人だとは思っても、私が「悪人」と思うことは決してありません。その私の固い思い込みに、阿弥陀様の智慧が働いて迷いから覚めて、私は「悪人」であったと気づかされるのです。私自身で変えるのではなく、私が転じられるのです。正にその「悪人」こそが救いの目当てであったのです。
称名念仏

無量の生命を引き継いで 2013/10/27

本願寺派布教使 浅野俊榮 

 2x2x2・・・と三〇回掛けていくと、約十億七千三百七十四万、それまでの数を全て足すと、約二十一億四千七百万を超える数になります。これは自分の先祖を三〇代、わずか千年程度遡った先祖の人数です。三〇代前には、なんと約十億七千万強、そして三〇代迄の先祖の総和は、約二十一億五千万弱の人数になるのです。
親が常に二人いるというこの算出根拠は、太古の時代に遡れば成り立たなくなります。一個の細胞分裂で次世代が出来たのですから。これだけでも私一人の生命には、無量の生命が必要だったことが容易に分かります。

 この様な事を申すのは、私のお勤めの声は私の声ではありますが、無限の過去からの無量の先祖の声が一つに和したものではないかと感じたからです。もっと言えば、その背後にある阿弥陀佛の声が、無量の先祖を通して私に届けられているとも言えます。それは科学的根拠が無いと一蹴されることでしょうが、教えから味わう世界観だと思います。

 阿弥陀という言葉は、インドの言葉だそうです。無限の光(無限の空間)と無限の寿命(無限の時間)を意味するもので、この広大無辺な宇宙の時空を包み込んだ虚空の世界・絶対の世界とも理解できます。その世界に普遍的に存在するはたらきを「法」と言い、法を人格的に表わして「佛」とも申します。要するに因縁生起の法のはたらきを、人格的に表したのが阿弥陀佛なのです。
一方、私どもの生きる宇宙時空は、相対の世界です。あらゆる存在が個として相対し関連して、生滅変化していく世界です。その世界に在りながら、自分の存在を絶対的なものと思い込んでいるのが私で、迷いの根源がそこにあります。

 私どもは、阿弥陀佛の存在が科学的に証明されたら信じる等と申しますが、それは間違った見方です。科学の法則には、地球外の条件では成り立たないものがあるかも知れませんが、阿弥陀の法・因縁生起の法は広大無辺な宇宙に遍在する絶対の法です。私の存在自体が縁起のはたらきに依るものですから、恐れずに申せば、私の存在自体が阿弥陀佛の存在を証明していることにもなります。
阿弥陀佛に包み込まれた自分に気付いたことが、迷いからの目覚めであり、ご信心を頂いたことであり、阿弥陀佛のはたらきに自分をお任せすることであり、お念仏申されることです。そのお念仏は、遠い過去からの無量とも言える先祖があってこそ、私に届いたのです。阿弥陀佛の願いがかけられた命を生きていることを教えられます。
称名念仏

社会生活に生きる教え 2013/8/30

本願寺派布教使 浅野俊榮 

 私が在職中に仕えた社長の奥様は、その元社長に、「あなたは仕事を離れて社外に出たら、ただの小父さんですよ」と言われていたそうで、彼の仕事を離れた時の付き合い方はフラットなものでした。その様にされてきた御夫婦ともに立派な方だと思いますし、その言葉は今も私の考え方の基になっています。特にそれを感じるのは、退職後でも尚、過去の肩書にこだわる男性が多い事です。退職したらただの小父さんなのですが、高い地位にあった人ほど、自治会活動や地域の人達に馴染めない傾向がある様に感じます。

 私どもの心の底には、相手が自分より上か下かと見たり、好か嫌いか、考え方が合うかどうか等と区別して、自分に合った小さな世界に閉じ籠もる性向が在って、価値観の違う世界には溶け込みにくいものがある様です。しかしながら現実には、地域社会に溶け込まなければ、馴染んだ会社も仲間もそういつまでも付き合ってはくれず、退職後の生活は孤独で淋しいものになってしまいます。

 私どもは自己中心的で、自分の思いのままに生きて行こうとします。その様な生き方をすることは、他人の幸せに嫉妬し、その不幸を望みます。自分に都合の悪い事は隠し、良い事は自慢します。相手が強ければ諂い、自分より下と見れば見下します。私どもには強弱の差はあっても、それらは生まれた時から身についたことです。そして生涯を通して、他人に対して優越感や差別意識がぬぐいとれず、どれだけ人を傷つけ世の中を暗くしているか気付くことがありません。自分が自己中心的であることにも気付づかず、他人のせいにした生活の連続ではないかと思います。

 阿弥陀様のお浄土には、私どもの本性を照らす鏡の役割があります。お浄土は、優劣や愛憎や利害等の差別を超えた一如平等の世界です。その鏡に自分のすがたを照らされてみれば、「なんと恥ずかしいすがたであるよ」と気付かされて、少しでも改めたいという心が湧いてきます。私どもはその様な大きな世界に照らされ気付かされないと治らない大病を患い、自分の小さな世界の中で行き詰まった不安な生活をしているのです。私どもが生まれながらにして持っている自己中心的な本性は、死ぬまで失せることはありませんが、「ただの小父さんだったな」と気付くのは、仏法聴聞を通して本性を鏡に照らされるからです。自分の本性に目覚めれば、優劣や愛憎や利害等の差別を超えて、お互いを愛おしむ心が恵まれてくる様に思うのです。み教えは社会生活と深く関わってこそ、生きた教えとなるのです。
称名念仏

心の安心を基に 2013/7/31

本願寺派布教使 浅野俊榮 

 散歩の途中に休耕田があり、その中の一部に直径が2m位で極浅い水溜まりが在りました。先の大雨で流されたのでしょうか、その中に十数匹のオタマジャクシがいました。梅雨明け後は連日の猛暑です。この当てにならない水溜まりの中で、オタマジャクシ達は在るがままを生きている様でした。私から見れば、わずかな水を頼りに、なんとも不安な命を生きているオタマジャクシ達が、憐れに思われたのでした。

 私どもは食の安心や生活の安全を求めています。体に害のない食物を選んで求めますが、食べ過ぎて万病の源を自らが作っています。社会環境の安全対策も進んではいますが、自ら事故を起こす事があります。生きて行く為には、安心と安全が大切な事は言うまでもありませんが、どれだけ完全な環境が出来たとしても、命は確実に終わりを迎えます。誰でも死は一番嫌な事だと思いますが、死の不安は恐怖に変わることでしょう。
                       
死の縁は無量と申します。遠慮会釈なしに突然に襲ってきます。躓いてこけて頭を打ったとか、心臓や脳の障害で急死した等と、日常生活の中に多く見聞きします。想定もしない事故にも遭遇します。最近ではサンフランシスコ空港での着陸ミスやスペインの高速鉄道の事故等々、同じ状況の中に居ても、座席の位置や居場所によって生死を分けます。逆に、チリの鉱山での落盤大事故では、700mもの地下から全員が救出されました。誰もが今日、事故に遭ったり死ぬ等とは思ってもいないのにそうなってしまうのですが、いつ死の縁が襲ってくるか等と、いつも構えていたのでは日常の生活は成り立ちません。

 親鸞聖人は、娑婆の縁が尽きた時に、浄土に往生するのである、とお示しです。それはご信心あってのことで、そうでなければ今まで通り迷いの世界を廻るのです。私どもが生まれ難い人間に生れて来た大きな目的は、財産や地位や名誉を得る事等を否定はしませんが、仏法を聞いて浄土往生を果すことです。そうでなければ人間に生まれてきた甲斐がありません。
人生何でも起こります。娑婆の縁が尽きる迄は、いつ何があっても自分の事として受け入れて、生きていかなければなりませんし、自分の命の解決は自分でしかできません。その為には、自らの存在の道理を聞き、浄土往生の因であるご信心を戴いて、いつ娑婆の縁が尽きてもそこがお浄土、という心の安心を基に日々を送る事だと思います。生死の事を知らずに今を生きているオタマジャクシ達が、命をかけて教えている様にも思うのです。
称名念仏

深い悲しみの身 2013/6/28

本願寺派布教使 浅野俊榮 

 昨年の十月の新聞に、地球から最も遠い銀河をNASAのチームが発見したと報じられていました。それは132億光年より彼方にあるそうです。宇宙が大爆発によって誕生して137億年ですから、宇宙誕生から5億年位後に出来たことになります。現在の観測技術からすると、私たちが認識できる一番遠い銀河だそうです。現在の科学技術、それを応用した観測技術の高さには驚かされます。

 素人考えでは、半径が137億光年の広大な宇宙空間が想像できます。その空間は広大であっても有限で、縁起によって成り立つ相対の世界です。そして阿弥陀と呼ばれる世界は、空間的にも時間的にも無限であり、中心もなければ辺際もない絶対の世界だと言われます。その絶対の世界に包まれた相対の世界に生存する私ども人類は、国や民族や宗教などの違いを問わず、総じて自らを中心にして物事を考え、どこまでも自らの欲望の実現に目が暗らんだ厄介な存在です。

 地球上の全生命は、生態系があってはじめて存在できますから、人類による他の生物の地上からの抹殺は、生態系の破壊を通じて、人類自らをもこの世から絶滅させることになります。最近、ニホンカワウソの絶滅が報道されましたが、更に絶滅危惧種の多いのにも驚かされます。地球誕生以来40億年かけて豊かになった生物種(約二千万種とも言われる)が、わずかこの百年足らずでその様になってきたのです。その原因は、過度な捕獲、地球温暖化、森林伐採、農薬の使用等々、挙げれば切がありません。どの原因をみても、特に先進国を始めとして人類の果てしない欲望を満たす活動の悲しい結果であります。

 色もなく形もない絶対の世界の働きが、相対の世界で姿を取ったのが阿弥陀如来です。広大な相対の世界に存在する全てのものは、互いに因となり縁となって複雑に関わりながら変化しながら、多くの命をこの地球に育んできました。それは全ての命が共に阿弥陀のいのち、万物一つのいのちを戴いて生かされて在ることで、私どもはその広大な営みを阿弥陀如来の働きと頂くのです。
しかしながら多くの命を取り、自から持つ欲望を満たそうとする煩悩を、私どもはそれを煩悩とも気付かず、悲しむということもなく平気で生きています。自らの煩悩に目覚めて悲しむということがなければ、阿弥陀如来の大いなる慈悲の懐に帰っていくこともありません。高度な文明や科学技術の世の中であるからこそ、このどうにもならない深い悲しみの身に早く気付きたいものです。
称名念仏

平生からの聴聞 2013/4/30

本願寺派布教使 浅野俊榮 

 会社などでは必ず防災・避難訓練を行います。特に私が勤務した化学工場では、毎日の安全確認の他に年に一度は大掛かりな想定訓練を行います。安全意識を養い、消火や爆発防止そして避難等を訓練によって体で覚え、いざという時に行動できる力を身に付けるのです。私は旅行でホテルに泊まる時は、必ず非常口を確認しておきます。いざという時には、体が確認した方向に動いてくれるそうですから、安心して就寝できます。

話しの場においても、自分で学び聞いて身に付いたことは、意識しなくても出てきますが、たまたま良い言葉や話したい内容があってメモしていても、使うことなく終えてしまうことが多く有ります。また、お宅はどの宗派ですかと尋ねると、しばらくしてお婆ちゃんが「帰命無量寿如来・・」と言ってお仏壇にお参りしていました、と言われる方があります。自分では宗派は分からなくても、浄土真宗のお勤めがいつの間にか記憶されていたのです。自分で学び聞いた事は身に付きますが、にわか仕立てはどうにもなりません。

この私が本当の自分に育てられるのは仏智によるしかありません。仏智は仏法の聴聞によって頂けます。聞くことによって、仏智、宇宙万有の道理、即ち真実を正しく見る目が頂けるのです。それは、多くのご縁によって命を頂き生かされている自分に気付かされることでもあります。私どもはご縁がはたらけば、いつどうなるか分からない体と命を抱えています。いざという時になって、心に安心を求めようとして求め得ず、それが返って苦しみに変わることにもなります。

 真実を正しく見る目を頂くことは、救われたことでもあります。つまり、苦しみ悲しんだ過去の出来事が、それを縁として今の自分に育てられた喜びに変わり、過去を引きずらなくても良くなります。病気に掛かってもそれにめげないで、かえって病気を通して命の深さを味わっていく心構えが与えられます。世の中に多く有る占いや迷信にも惑わされることなく人生を精一杯生きて、この命が終った時がお浄土ですから、いつ何が起きても不安は何もありません。
自らが学び聞き訓練された世間の知識や知恵は、世渡りには不可欠なものですが、それがどれだけ多くても、それによって本当の自分に育てられることは決してありません。むしろそれが多いほど自分の計らいも多くなり、本当の自分に気付く邪魔にさえなるのです。仏智は知識で習得できるのではなく、にわか仕立ても間に合いません。平生からの聴聞の他には頂く手立てはないのです。
称名念仏

   私は全て貰いもの 2013/3/25

本願寺派布教使 浅野俊榮

 先祖を三〇世代、わずか千年余りを遡るだけでも、その総数は約二十一億四千七百万人を超えます。そういう人達が皆、今の私の中に生きているのです。もっと時代を遡り、猿から人間に分かれたのが約六百万年前、更に太古の時代まで遡れば、天文的な数を超えた無量の命になる事でしょう。そういう目に見えない先祖が、私の中に生きていて、他の人の中にも同じ様に生きています。それぞれの人が、小さな宇宙であると同時に、その中に大宇宙を内包しているとも言えます。

 私どもは常に自分と他人を分けて考えますが、人類は全て同胞なのです。自分の身体は両親の身体であるということから、親の親を求めていくうちに、私自身が無量の命に繋がり、人類の一人一人と残らずその身体が連なっていること、一つの胞から生まれていることに気付きます。その胞とは、地球であり、大宇宙であり、阿弥陀佛であります。

  佛教は縁起ということが根本の思想です。古い経典には、「縁起を見る者は法を見る、法を見る者は縁起を見る」とあります。法とは物事の在りのままの相(すがた)・真実のことですから、縁起も同じく真実・ものの本質であるということになります。従って、真実を見るということは、縁起を見るということでもあります。
私どもは無限の過去から、あらゆるものが原因となり条件となって、お互いが連なりながら現在の命を戴いています。縁に依って生じたり滅っしたりする身命には、私すべき一欠片もありません。それは万人に共通した自明の原理であり真実ですが、沢山の人々は必ずしもそれを自覚しておりません。逆に自分は独立した唯一の存在であると決め込んでいます。それが真実を知らない無明であり、私どもの迷いの根源であります。

 私の体や命までもの全てが、戴きもの、借りもので貰いものばかりですから、本質としての「自分のもの」は一欠片もありません。つまり人間存在は無一物、取捨して執着するものは何も無いということです。そこを自覚し、その自覚を深めていく以外に、人生の意味も目的もないことになります。
自分が法つまり縁起の働きの中にあるという自覚は、阿弥陀佛の大悲に包まれていることに目覚め、自らを計らいなくお任せすることです。それがご信心であり、お念仏が申されることです。お念仏申す人生は、浄土・真実の世界から支えられながら、無明から目覚めた喜びに報謝する人生でもあります。その人生の終わりには、戴いた体も命も全てをお返しして、浄土で仏に成らせて頂くのです。
称名念仏

   流れゆくもの 2013/2/22

本願寺派布教使 浅野俊榮

 同じ町内に曹洞宗の寺院があります。いつも散歩する道筋に面した山門に伝道用の掲示板があって、そこに書かれた言葉を考えながら散歩することがあります。最近は「流れゆくものを、くい止めようとするから、苦が生じる」と書かれています。この様な禅の言葉は、私どもには上辺は分かりやすい様に感じますが、色々と考えてみると奥深い意味合いが含まれている様です。私は、この言葉からは、人生の苦しみを無くするのはどうすることなのかを問い、身も心も流れゆくまま変わりゆくままを受け入れよと、言っている様にも感じるのです。

  世の中に存在する全てのものは、変わりゆくものであって、私も貴方も例外ではありません。私どもは変わっていく自分を、なんとか止めたいと思いますが止まりません。いつまでもそう在りたいと願いながら、その願いが違うのが人生です。人生の苦しみは、変わりゆくことが普遍の真実であることを知らないが故に、自身で作り出しているのです。

 私どもは、何か事があると「関係ない」と強く自らの関りを否定しますが、この世の中に自分と関りなく存在するものは何一つとしてないのです。逆に世の中のあらゆるものと関係しない自分もなく、常に関係しながら変わっていく自分なのです。
それをお釈迦様は、あらゆるものは因縁生滅していくとお説きです。私どもは、「私」というものが永遠に存在するという固い思い込みを持っていますが、今日の私は昨日の私ではなく、明日の私でもありません。ただ因縁によって生じ滅して変わった私を、変わらぬ私と思い込んでいるだけのことです。

 人生では、あらゆるものが変わりゆくが故に、大切なものを失う悲しさや寂しさに出遭います。変わることは受け入れ難いことですが、変わるからこそ楽しいことや嬉しいことにも出遭います。子供が生まれ成長し、蕾が開き花になります。変わるからこそ味わえる喜びであります。お念仏申そうと思われるのは、阿弥陀佛の働きによって自身の観かたが変えられて、因縁生滅によって自分が在ると気付かされ、本当の在り様に目覚めさせられたときです。私は、その目覚めをご信心と頂き、阿弥陀仏の働きの中に包み込まれた私であったという発見の喜びとも頂きます。
流れゆくものをくい止めようとする心を、私どもには捨て去ることが出来ません。しかしながら、普遍の真実に目覚めてお念仏申される人生では、寂しいことも嬉しいことも、あるがままをそのまま受けていけるのです。
称名念仏

   願いに答えること 2013/1/21

本願寺派布教使 浅野俊榮

 大きくなったら親孝行をする・・等と思っておりましたが、果たして本当に孝行ができたかどうかは疑わしいと思っています。折に触れ金品を贈り優しくしたことが、親の恩に報い孝行したことになるのか、どこか心満たされぬ儘に、父母を送ってしまった様な思いがあります。
親孝行とは、親を敬い良く尽し、恩に報いることだと思います。子供の頃は、この孝行とか恩とかについて、家庭でも学校でもよく聞かされ教えられましたが、近年では余り聞かれなくなった様な気がします。

 そんな状況ですから、学校では教わったかも知れませんが、私は家庭で子供に親孝行の話をした事は無い様に思うのです。今のところは、子供にそういう孝行を望んだ覚えがないように思います。しかしながら、更に年を重ねて何もかも衰えてしまった時には、話しておけばよかったと後悔し、今の私には分からない父母が味わった思いを、同じ様に感じることになるかも知れません。

 私どもに南無阿弥陀仏を信じさせ、称えさせて往生させられなかったら、私は仏に成らないと固く誓われたのが阿弥陀仏です。そのお心は、私どもがお誓いを疑いなくそのまま頂いて偏に念仏申すことにあると、親鸞聖人がお示しにならなかったら、私ども凡夫には往生浄土の道はなかったのです。そして代々に継がれて、今私どもにその阿弥陀仏の願いが届けられています。
阿弥陀佛の願い、親鸞聖人の願い、それを私に伝えてくれた祖先や父母の願いは、念仏申せという願いです。その願いに答えた私の生活は、あらゆるものの恵みの内にあるという思いから、知恩報徳を規準にした生活になっている様に感じております。

  親とは、私を生み育ててくれたもの全てであるとも頷けます。父母はもとより、祖先、地域、国家、地球そして宇宙などがそうでしょう。この大宇宙全体のいのちの根源である阿弥陀佛までが親ということになります。
広く考えれば、地域や国のために働くのも、ボランティア活動も親孝行の一つでしょう。そして父母への孝行は、優しさや金品を贈ること等もありますが、何といっても「親の願い」に答えることでしょう。それが恩に報いることになるのではないかと思うのです。
ご信心を頂いた後のお念仏は、報恩であると教えられます。お念仏申すことは、すべての「親」への本当の孝行であり報恩であると、近頃その様に考えてみることがあります。また、お念仏の道を子供や孫に伝えることも、願いに答えることだと改めて思うのです。
称名念仏


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