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(本願寺山口別院 山口教区教務所)

   阿弥陀佛と浄土の存在 2010/10/21

本願寺派布教使 浅野俊榮

 先頃のこと、大学の学生寮で共に過ごした仲間十人が、40年ぶりに再会しました。共に電子工学を学び、時代の先端を一生懸命に走って来た仲間です。科学技術の進展は早く、夫々に苦労や努力があった様です。
年を取り、死や死後のことを考えるのでしょうか、お酒の勢いも借りて、阿弥陀佛や浄土が実在するのかと、数人の仲間が問うてきました。技術職として生きて来ると、どうしても科学的な思考に染まってしまい、素面ではなかなか問えなかったのかも知れません。

 この会合の少し前でした。老人病院での法話の後で、患者さんが、「自分は技術職だったので仏様の話を聞いてもピンと来ない」、と言って自室に戻られたことがありました。
確かに科学技術は、人類の生活に具体的な形で深く関わっております。しかしながら、そうだからと言って、人類に心の豊かさや安らぎを与えたわけではありません。

科学による人間の見方は、人間の五感や統計的に処理された数値等によって、人間の状態を認識し、誰もがその事実に頷くことでしょう。つまり人間の状態を、経験的な事実に照らして客観的に見ることだと思います。
一方の仏教の見方は、私自身が主観的に、私の精神世界の奥底まで、私の心そのものを見ることです。それは科学や技術、経験そして世間的な知識や道徳ではなくて、仏の智慧によって照らし出された、自分の真実の心を見させていただくことなのです。
親鸞聖人は次のようにご述懐されています。「阿弥陀様の本願に帰依して、自分には真実心が無いことを知った。私は嘘や偽りに満ちた不真実の人間である。私には阿弥陀様が浄土を作られた清浄な心は欠けらもない」と。

親鸞聖人は、阿弥陀様のお智慧に照らされて、まったく救われようのない、ご自分の真実の心を知らされたのです。そのような自分であるからこそ阿弥陀様のお誓いによって、お浄土に生まれ仏に成らせて頂く身であったと喜ばれたのです。
目には見えない、心に思うことすら出来ない阿弥陀様やお浄土を、実証することは出来ません。有るか無いかを計らうのではなくて、阿弥陀様のお慈悲を私どもの心に頂いていけば、阿弥陀様やお浄土はなくてはならない存在になってまいります。
この問いへの答えは、阿弥陀様のお慈悲を聞く機会を重ねて、自分の心を育てていただくことです。また多く出版されている書物からも聞くことができます。聞法の他には、何の手立てもないのです。
称名念佛

   宿縁を慶ぶ 2010/9/27

本願寺派布教使 浅野俊榮

 先の小稿に記したモスクワ出張で、初めて出会い一緒に仕事をした中国人とは、今も友達付き合いがあります。私達二人が共に遠い異国で出会ったことは、ただの出会いとは思えないのです。
「遠く宿縁を慶べ」と親鸞聖人のお示しがありますが、宿縁とは、私どもの限られた知識や知恵をはるかに超えた、遠い過去世からの因縁です。二年前には、彼の案内で、中国の西安市で車を借り、善導大師の香積寺や鳩摩羅什の草堂寺等にお参りしました。これも宿縁を慶ぶ出来事の一つだと思っております。

最近、彼の誘いで上海万博に行く機会を得ました。日本語の出来る彼の家に泊まり、異国で不自由なく旅を楽しめるのも、不思議な出遇いのお陰です。
彼は仏教徒ではありませんが、私にとっては特別な存在に感じられます。人の出会いは、有って当たり前の様ですが、宿縁を感じる出遇いもあります。彼との出遇いは、正しく不思議なこととしか言いようがありません。

 今回の旅では嬉しい出遇いがありました。上海から福岡行きの飛行機に、中国人夫婦が4歳位の女の子と搭乗し、私の席と通路を挟んで反対側の席に座わりました。
始めのうち、女の子は両親と中国語で話していましたが、そのうち日本語に変わり、しばらくして日本の童謡を歌い始めました。私は聞き流していましたが、何曲かの後に、まさかと耳を疑う歌が聞えてきました。「如来大悲の恩徳は身を粉に・・」という恩徳讃でした。中国人の子供がどうして?と驚きましたが、嬉しくなってお念仏が出たのでした。
福岡に着いて、思い切って、彼女の母親に声をかけました。さっき恩徳讃を歌っていましたねと。母親は、福岡市内のお寺さんの幼稚園で習いましたと答えてくれました。何でもないと言えばそれ迄のことですが、阿弥陀様のはたらきを感じる出遇いでした。

私の孫も幼稚園で習った恩徳讃を大声で歌います。彼女も習ったままが声となって出たのでしょう。彼女が長じて何かの縁で歌詞の意味を知ったら、そこから仏縁が生れるかも知れません。いつの日か阿弥陀様の願いを聞いて欲しい、親鸞聖人のお心を頂いて欲しいと願うのであります。
この世のあらゆる事象は、不思議な因縁によって生じ、また滅します。この出遇いそのものは、縁が尽きて終わりましたが、この出遇いは今の私を在らしめ、この小稿を書かせるご縁になりました。このご縁もいつしか遠く宿縁となっていくのでしょう。
称名念佛

   取捨選択された教え 2010/8/9

本願寺派布教使 浅野俊榮

 整理整頓という標語をよく見かけます。多くの企業等では、整理、整頓、清掃、清潔、躾の各頭文字の「S」から、「5S活動」と称して、業務改善を進めています。中でも整理と整頓は大変に難しいことです。ここで言う整理は、不必要なものを思い切って取り除くこと、また、整頓はその必要なものを片付け継続することです。
私どもには色々な思惑があって、自分のことや周辺の整理が中々できませんし、片付けても何時しか元に戻ってしまいます。

整理整頓に清掃や清潔を含め、全ての事において、「そう在りたい」と思った状態を先ず設定します。それを維持改善していく仕組みを作り、教育し推進するのが躾です。5S活動は、期限のない地道なものですが、一つひとつの努力が、企業等の組織の基礎体力を向上させ人材の育成に繋がるのです。
私の経験した5Sの精神は、私どもの日常生活にも通じると思うのです。

お釈迦様は、悟りを開く多くの法門を説かれました。その中でも、自分で悟り成仏する智慧を持たない私ども凡夫に合った教えが、念仏の教えであります。念仏が選び取られた歴史的な背景には、インドと中国そして日本を代表する七人の高僧方の、長い時間をかけた取捨選択のご苦労があったのです。それは正に命がけの求道であったと教えられます。
その第七人目の法然聖人は、自力開悟の教えから念仏の教えに替わられましたが、念仏で救われるという確かな信念が得られませんでした。そんな中で、「凡夫が念仏によって救われるのは他でもない、それは阿弥陀仏の願いに順ずるからである」という、第五人目の善導大師の文言に出遭われたのです。そのお喜びは、大変なものだったことでしょう。
その後、親鸞聖人に伝えられ、念仏往生の道として私どもに伝えられてきたのです。

全ての人々は、生老病死について多くの不安や恐怖を抱えて生きており、そこには色々な宗教が絡んできております。安心の生活、それを「5S」的に見れば、一刻も早く自分に合った教えを求め聞き選び、生老病死の不安を解決して、その教えや社会のルールに基づいて生活をすることです。それは子や孫にも自然と伝わり、躾となっていきます。
私は、念仏の教えを頂きました。阿弥陀様のお誓いを信じて念仏申すのです。それは「南無阿弥陀佛」と称えるだけのことですが、阿弥陀様ご自身の願いを、自分の声で称え自分の耳で聞き素直に順ずることです。称えるままが浄土往生の確約を聞くことなのです。
称名念佛

   西遊記に隠された仏の教え 2010/8/9

本願寺派布教使 浅野俊榮

 西遊記を初めて読んで半世紀近くになりますが、改めて読んでみると仏の教えが隠されている様に思います。主人公は三蔵法師、その弟子に孫悟空、猪悟能(猪八戒)そして沙悟浄がおります。三蔵法師は、唐の時代に長安からインドに経典を求めて旅をした実在の僧、玄奘三蔵がモデルです。弟子の三者は架空の妖怪で、師の三蔵法師を守る為には、暴れたり相手を殺したりもします。そんな彼らですが、「悟」の一字が付いた法名(戒名)を持つ仏弟子の様でもあります。

唐の時代、インド往復の旅は、命が危ない上に、思う様にならないことばかりだったでしょう。修行した玄奘でも、それらが元になって、怒りや愚痴が出たと思います。
物語は、人間・玄奘の偉業と心の動きを、三蔵法師と弟子達の姿として、面白く楽しく描いている様です。特に玄奘の心の動き、三毒の煩悩の働きを、弟子三者の特有な気性として、「瞋恚」の怒りを悟空で、「貧欲」の貪りを八戒で、「愚痴」を悟浄で、それぞれを象徴している様に見えます。

孫悟空の武器は「如意棒」、または「自在棒」と言って、大きさや長さが如意に、思うままに変化します。如意の反対は「不如意」で、思うままにならないことです
私も法名を戴いた仏弟子ですが、自分の思う様になることを願います。しかしいつもそうなるとは限りません。不如意な時に大声を張り上げ怒り愚痴る私の姿は、まさに悟空や八戒、悟浄が暴れている姿です。私の心の中には、追っても払っても逃げることのない、悟空や八戒、悟浄がいることを教えられます。

「悟空」の意味は、「空」を悟る、即ち縁起の道理、自分の全てが不如意であったと気付かされることです。私どもは、いつまでも若く美しく健康でいたい等と、必ず来る老病死に背を向けています。その思いは否定できませんが、体も目も耳も元気な今こそ、本当の自分の在り様を、仏法に聞き問い考えることが何よりも大切です。
「まかせなさい、必ず汝を救う」という南無阿弥陀仏のお謂れを聞かせて頂くのです。聞かせて頂きお念仏申されるままに、不如意な自分に気付かされ、老いることも病むことも死ぬことも当り前であったと、引き受けられたときが、救われたときです。
この物語の終には、お釈迦様と張り合った孫悟空が、三蔵法師とともにお釈迦様に救われて仏の数に入る件があります。いつもお釈迦様の教えに背を向けている私ですが、一緒に救われていく思いがするのです。
称名念佛

   連関した存在 2010/7/8

本願寺派布教使 浅野俊榮

 今回は少し息抜きをして、前回のモスクワ出張の貴重な体験からお話しましょう。
出張先は、厳密にはモスクワ近くのツーラ市で、モスクワから更に200キロ位南下したトルストイの生れた街でした。厳冬の二月と春先の四月、そこに二回滞在しました。
モスクワからツーラへは、一週間分の水や加工食品等をワゴン車に積んで、5時間ばかりかけての移動でした。道路は延々と続く白樺林の中をほぼ直線的に走り、厳冬期は凍っていました。週末はモスクワに戻って休養し、政府関係機関に一週間分の業務報告をした後に、再びツーラへという生活でした。

出張先の会社は旧ソビエト連邦時代に建設された古い化学工場で、私の主な仕事は、古い業務体質の改善と人員整理でした。遠い異国からの私には、何事につけ大きな不安がありました。そんな私に対して、先方の担当部長は、国家や民族、文化、宗教、慣習等の違いを超えた一人の人間として、和やかに応対してくれたのでした。

その担当部長の部屋では、鉢植えのレモンの木が、数個の青い実をつけていました。外気がマイナス20度前後でも、暖房と手入れによって、実をつけたのでしょう。
二度目に訪ねた四月の末、仕事を終えて日本に帰る前のことでした。彼が少し色づいたレモンの実を、惜しげもなく一つもぎ取って、私に「これでレモンティーを」と渡してくれたのです。何の変わりも無い普通のレモンでしたが、苦労の結晶を頂く思いで、有り難く掌を重ねて受け取りました。

一つのレモンを頂いた事は、唯それだけの事なのでが、よくよく考えてみれば、不思議な出来事だったのです。その巡り合わせは、永遠の過去から連綿と続いて来たあらゆる存在の生滅変化が、時間的に空間的に連関して、彼となり私となりレモンとなって、この世でただ一回限りの出来事に成ったのです。
私どもは何かにつけて、「私とは関係ない」と申しますが、関係なくして私どもの今の存在は無いのです。私がこの世に命を恵まれ、お念仏が申されるのも、関係ないと思われる全宇宙中の存在の全てが、私のために働いているからです。逆に私の存在は、気付かないだけで、他の一切の存在に連関しているのです。
私どもは互いに関係しながら生かされ生きている、即ち阿弥陀様に抱かれて在ることを、ロシアでの色々な思い出から、改めて教えられるのです。
称名念佛

   いつでもどこでも 2010/5/31

本願寺派布教使 浅野俊榮

 浄土真宗のご本尊の一つに懐中名号があります。神社のお守り位の小さなもので、中には「南無阿弥陀仏」と書いてあります。
僧侶に成る前の私は、大病を機縁として、懐中名号を「お守り」の様に持ち歩いておりました。後に僧侶に成ってからも習慣的になって、何処に行くにもカバンに入れておりました。これは「お守り」ではないと思っていましたが、どこかに安心を感じていた様です。

私が会社に奉職していたある時期、担当業務の関係で、飛行機を利用する機会が多く、初めのうちは、事故や墜落が気にかかり、飛行機の利用を避けたい思いがありました。
十数年前のこと、モスクワに出張しましたが、その時も懐中名号を持って行きました。冬のシベリア大陸は、行けども飛べども眼下に大河のうねりが白蛇の様に見える他は、一面真っ白な果ての無い世界でした。広大な空間を長時間飛ぶ間には、エンジンが止まったり機体が壊れたりはしないかと、何度かお念仏を称えたことがあります。それは今思うと、頼みの念仏だったようです。

私は出張や旅行の折には、必ず小冊子の仏教書を携行します。このモスクワ出張の時も飛行機の中で、阿弥陀様の摂取のはたらきについて読んでおりました。
その折に、天下無敵の孫悟空がスッ飛び雲で飛んでも、お釈迦様の掌から出られなかった西遊記の一節を思い出しました。しばらくの後に、私が今飛行機で雲の上を飛んでいるのは、阿弥陀様の懐の内を飛んでいることではないかと、ふと感じたのです。「摂取されている」というのは、阿弥陀様に抱かれていると言うより、阿弥陀様の懐の内に居る状態ではないかと、初めて気付かされたのです。

この気付かされた時が目覚めの時であり、「ご信心」を賜わった時なのです。それまでは、私は阿弥陀様を自分と向き合った相対的な存在に思っていたのです。懐中名号に頼ること自体が、阿弥陀様を向こうに見ていた事になります。しかし気付かされて気付いてみれば、気付く以前から阿弥陀様の懐の内にすっぽりと収め取られていたのでした。
私は、懐中名号を持つのは大切な事だと思いますが、モスクワ出張が終わってから、懐中名号を持ち歩くことを止めました。私には持ち歩く必要が無くなったのです。いつでもどこでも称えられるお念仏は、称えるままが阿弥陀様の懐の内にいる証であり、既に救われてあった我が身を喜ばせていただくことなのです。懐中名号を持ち歩いていた頃の私は、まだまだ本物ではなかったのです。
称名念佛

   金剛心を頂く 2010/5/31

本願寺派布教使 浅野俊榮

 ある新聞の広告に、遺骨の炭素からダイヤモンドを生成し、宝飾品にして故人との絆をいつも確認できる云々、とありました。
本来ダイヤモンドは、地球の深部で、超高温高圧のもとで長時間かけて作られます。天然の物質では、一番硬度が高く屈折率も高く、光輝く最高の宝石として君臨するのです。
ダイヤモンドは金剛石と呼ばれ、お経の中には、お浄土の荘厳に無数の金剛石が使われている様子が説かれています。

一方、人造ダイヤモンドは、主に工業用の研削材として使われますが、最近では生成技術の向上で、天然ダイヤモンドに劣らない品質が得られています。従って、遺骨からも炭素を高精度で抽出して、天然に近いダイヤモンドが生成出来るそうです。
人造ダイヤモンドは偽物ではありませんが、天然の本物でもありません。それを宝飾品として着けても、本物でないということに、いろいろな思いが付いて回ることでしょう。

 浄土真宗のお聖教に、「正信念佛偈」があります。これは私どもが阿弥陀様のお浄土に参らせて頂けることを、阿弥陀様やお釈迦様が教えて下さったことに対して、親鸞聖人が感謝と報恩の思いを偈(歌)にされたものです。この偈の中に、「行者正受金剛心」と述べられています。
私どもが浄土に参られる因は、阿弥陀様から頂く信心だけです。この頂く信心が他力の信心です。この信心は、凡夫の心の中でも金剛石の様に、破れたり変わったり乱れたりしないので、金剛心と言われるのです。他方、私の作り上げた信心が自力の信心です。私がそれで一応の安心をしても、偽物を着けた時と同じ様に、私の心は常に移り変わっていきますので、金剛心とは言われないのです。

私は既に両親とも亡くなりました。両親を想い偲ぶ時には、「なんまんだぶ、なんまんだぶ」と、お念仏が出てきます。両親が称えたお念仏も、私が称えるお念仏も、同じ金剛心のはたらきです。お念仏が申されるときには、阿弥陀様に抱かれた一つ世界の中に、両親と一緒に居る思いがすることがあります。
金剛心を頂くということは、癒されるようなことではなく、阿弥陀様との絆を結ぶというようなことでもなく、阿弥陀様にもともとから包摂され続けてあったと、目覚め気付かされることなのです。
親鸞聖人は、死んだらご自分の遺体を加茂川に流し魚に与えよと迄申されました。お念仏を頂いた身には、遺骨でダイヤモンドを造り、故人との絆にする必要がなくなるのです。
称名念佛

   凡夫のままながら 2010/4/1

本願寺派布教使 浅野俊榮

 春を待って色々な花が咲き始め、ウグイスがどことなくぎこちなく鳴き始めています。自然の営みは不思議なもので、どれだけ寒い冬であっても、いつしか春になり、どんなに暑い夏であっても、必ず秋が巡って来ます。
その四季折々に花が咲きますが、開花には日照時間が大きく関わるそうです。日照時間が長くなると咲く花、逆に短くなると咲く花等と、自然のはたらきに順応しているのです。

植物だけでなく全ての動物にも共通した生理現象があって、体の大小に関わらず一生涯の脈拍数は、約15億回位だそうです。体が小さくて脈拍の速い動物は短命で、大きくて遅い動物は長命といわれています。
こうしてみると、植物も動物も生きとし生ける全てのものは、それぞれに生命の維持を始めとして様々な活動をしておりますが、宇宙全体の自然の決まりごとに、与えられたままに背かず適応しているのです。

 私ども人間はどうでしょう。科学技術によって、クローンや遺伝子組み換えの技術を開発しました。これらは医療や食糧対策等を目的としたものでしょうが、自然界の生命現象では、起こり得ないことだと思います。
人間の本来の寿命は、脈拍数や他の生理現象から推定すると、25歳位だそうです。当たり前と思っている私どもの長命は、文明や医学の進歩によって得られた不自然なものかも知れません。
人類の幸福と称して、自然まで征服しようとする人間の尽きぬ欲望は、自然本来の在り様を忘れたもので、将来に大きな不安を生じるのではないかと思います。

この欲望に任せ真実に目覚めることの無いすがた、自分の力で覚り仏に成ることが全く出来ない不安な存在、を凡夫と申します。凡夫とはまさにこの私の在り様なのです。
他方、阿弥陀様の全てのお徳で出来上がったのが南無阿弥陀仏の名号です。お名号は、凡夫の私を真実に目覚め気付かせて、必ず浄土に往生させて仏に成らせるという、阿弥陀様のはたらきの姿です。
お名号に出遭い阿弥陀様のお智慧を頂くと、凡夫のままながら、自分を始めあらゆる存在の不思議さに気付かされるのです。科学や技術の進歩を否定するのではありませんが、阿弥陀様のお智慧によって自然の在り様に気付かされてこそ、私自身そして人間の尽きぬ欲望を、少しでも正すべく知恵が生れるのではないかと思うのです。
称名念佛


   手塚さんの想いから・・・ 2010/2/18

宇部北組 正善寺 山本敬至

 今年は、漫画家の手塚治虫さんの生誕八十周年です。手塚さんは二十年前に六十歳で亡くなられましたが、その直後に、『ガラスの地球を救え』という本が出版されました。その中で、ご自身の代表作『鉄腕アトム』を取り上げて、「自然や人間性を置き忘れて、ひたすら進歩のみをめざして突っ走る科学技術が、どんなに深い亀裂や歪みを社会にもたらし、差別を生み、人間や生命あるものを無惨に傷つけていくか」を描いたつもりだと仰っています。アトムはいつも対立する人間とロボットの間で悩んでいます。 そして現実では、人間は地球の声に耳を傾けず、傷付け追い詰めている。また人間お互い同士をも傷付け合っていると、そんな私たち人間の所業を嘆きながらも、手塚さんはこう続けます。「しかし、それでもなおやはり、僕は人間がいとおしい。生きる物すべてがいとおしい」と。手塚さんはその生涯を通して、常に人間の愚かさ、それ故にいのちの尊さを作品で伝えようとされました。
手塚さんの「それでも人間がいとおしい」という想いは、親鸞聖人そして阿弥陀さまの想いへとつながります。自分自身を省みず、同じ過ちを繰り返してしまう私を、だからこそ決して見捨てず必ず救ってみせる、救わずにはおれないといとおしんで下さるのが阿弥陀さまの想い・願いです。これを「摂取不捨」といいます。
親鸞聖人も、その人生において阿弥陀さまの想いに出遇われ、慶び、その慶びを『教行信証』などのお書物・お手紙に著されています。親鸞聖人は、“私たちは阿弥陀さまから常に願われているいのちなんだよ。その証拠に「南無阿弥陀仏」というお念仏を下さったんだ。どうか阿弥陀さまの想い・願いを聞いて、共に慶びましょう。”と、そのご生涯をかけて、今の私たちに伝え残して下さいました。
阿弥陀さまはいつも「ナマンダブツ ナマンダブツ」(必ず救ってみせる)と喚びかけておられます。手塚さんの、そして親鸞聖人のメッセージを受け取って、今度は私たちがお互いのいのちをいとおしんでいけるように、「ナマンダブツ」とお念仏申すばかりでございます。
参考文献 『ガラスの地球を救え』手塚治虫 光文社


   「あさましい、ありがたい」 2010/2/18

妙蓮寺衆徒 原 卓爾


私は平素幼稚園に勤務しております。今年の春に知り合いの方から園でミニトマトを栽培してみないかと言われ苗をいただき、子ども達とみんなで植え付けをしました。植え付けてすぐの時は、風で倒れないか心配でしたしが、葉っぱが成長して、かわいい黄色の花が咲き、緑の実がついた時はとても不思議で、かわいくて、収穫できる日を楽しみにしておりました。そして太陽の光をしっかり浴び、園児のお当番さんが水やりをして、みんなで大切にお世話しました。お世話のかいあってたくさんのミニトマトが収穫できました。でも、みんながお世話をしただけでは、ミニトマトは成長して実をつけることはできなかったのです。太陽の光がとどかない、まっ暗な場所では野菜は成長できません。畑の土が野菜の好きな状態になるためにはミミズの働きも必要です。生きているトマトの「いのち」には、数えることができない多くの働きが注がれていました。魚や動物や私たち人間も、決して独りで生きている「いのち」はありません。このことを阿弥陀さまは「すべてのものは、多くの「いのち」に支えられて、生かされて生きているのですよ。世の中のすべてのものは、あなたの「いのち」とつながっているのですよ」と、教えくださいました。

真宗の熱心な御門徒さんを妙好人というのですが、島根県温泉津町にいらした妙好人の浅原才一さんは「あさましい」「ありがたい」と言う言葉をいつも口にしておられたそうです。「あさましい」とは、欲にまみれた私であるという、深い反省からでた言葉です。先ほどお話をしました、ミニトマトの話で言うなら、私達は色々ないのちをいただかなければ生きられない。たくさんのいのちの犠牲があって私が今あるということはが様々な命をいただかなければ生きていかれない、いいかえれば、罪をつくらなければ生きられない私、その深い反省からあらわれた言葉でありましょう。又「ありがたい」と言うのは、こんな「あさましい」私を救うと仰せくださるとはなあ、という感謝の思いをあらわされたものです。この「あさましい」と「ありがたい」が、お念仏を聞き、お念仏申す生活の中でひとつになるのです。この「あさましい」私を、あさましいままで、阿弥陀さまはお救いくださる、なんと「ありがたい」ことかとよろこぶと同時に、だからこそ、このみ仏の御恩に報いるためにも、一日一日、を大切に生きなければならないのです。


   念仏は知る力 2010/2/16

本願寺派布教使 浅野俊榮  

 ある書物から一部引用させて頂きます。
命のあるものは必ず死んでいきます。これは生きとし生けるものが、背くことのできない宇宙全体の法則です。この世に生まれた我々は、この決り事の下で生活していくのです。この生活の「生」とは自分が生きること、そして「活」とは、関係あるものを生かしていこうということであります云々と。

この「生活」という言葉から、大変なことを教えられます。それは今まで全て自分の力で生きているとばかり思っていたのが、実は生かされて生きていた、ということです。
私どもは、自分と他人という区別をします。自分というのは、この広大な宇宙の何処を探しても自分一人であって、自分以外は全てが他人です。だがその他人は一人一人が自分なのです。それぞれの自分が生きる処が生活の場です。この生活の場は、私どもが認識できる範囲から広大な宇宙全体にまで及びます。全ての自分は、宇宙全体のありとあらゆるものと、時間的に空間的に関連しながら、生かされて生きているのです。

 広大な宇宙の誕生は、一三七億年前だそうです。私どもの体は七割近くが水で出来ています。また例をあげれば、全身に酸素を運ぶヘモグロビンは鉄を材料とし、甲状腺ホルモンはヨードを材料とします。水の材料の水素と酸素は約一三〇億年前に出来、また鉄やヨードの様な重い元素は、太陽の三十倍以上の大きな星の爆発、つまり星の死によって出来たのだそうです。そのような元素が地球に存在するとは、何と不思議なことでしょう。
広大な宇宙の全ての存在は、相互に関連しながら永遠に生滅変化しているのです。私どもは両親を縁として生まれましたが、それは遠い遠い過去から、宇宙の道理のはたらきによって準備された、つまり縁起された出来事なのです。この自分が生れるには、少なくとも一三七億年の時間が必要だったのです。

佛教では諸行無常、諸法無我と示され、全ての存在は縁起したもので実体はない、と教えています。佛というのは「覚った人」と言うことです。覚るというのは、宇宙の道理・法則に目覚めること、言葉を変えれば、覚りの智慧を得ることであります。
私どもは、常に自分の知識の眼で物事を見て判断しておりますが、智慧の眼によって見るのでなければ、自分を含めた真実の有様がわからないのです。自己を知り、悪を知り、死を知り、恩を知る力、それが南無阿弥陀仏です。私どもにとっては、南無阿弥陀仏・お念仏のお謂れを聞かせて頂くことが、そのまま覚りの智慧・ご信心を頂くことです。
称名念佛


   後生の解決 2010/1/29

本願寺派布教使 浅野俊榮

阿弥陀様に抱かれて、新しい年を迎えることが出来ました。今年もお念仏と共に、与えられた人生を歩んで行きたいと思います。
毎年のことですが、あれもしようこれもしようと多くの課題を設けますが、思った様に行かないことも、なんと多いことでしょうか。出来なかった事については、あれやこれやと、その理由を自分の外に見つけようとします。
世間のことはそれでも仕方がないことがあるとしても、自分の後生のことは、それでは済まされないことなのではないでしょうか。

後生とは、この世の命が終わった後のことです。この私はどこに往き、どうなるのでしょうか。大きな不安を抱えています。
その後生とは何かを明らかにする時は、生きている現在であります。人間としての命がある今、明らかにしないと、次の生以降に人間に生れてくる保証はどこにも無いのです。
仏法は人間の言葉で説かれていますので、人間でないと聞くことが出来ません。この世に人間として生れた真の目的は、この仏法を聞くためです。何も聞かずに逝くことは、宝の山に入って素手で戻って来る様なものです。

親鸞聖人は命がけで「生死出づべき道」を求められました。この「生死(しょうじと読む)」とは、私の命が生れて死ねば終りということではありません。仏法では「流転」とも言われ、生れては死に、死んでは生れるという気の遠くなるような無限の流転を繰り返すことであります。この無限の生死流転のことを迷いとも申します。私どもは今まさに、この迷いの真っ只中に在るのです。
親鸞聖人は、私どもが迷いから抜け出せる道は唯一つ、南無阿弥陀仏を信じさせ称えさせて浄土に救うと言う阿弥陀様の本願を、疑いなく頂き念仏申すことである、とお示しです。

阿弥陀様の本願を頂く、即ちご信心を頂くことは、この世では迷いの凡夫のままですが、命終われば迷いから救われて浄土往生が約束されることです。言葉を変えれば、後生の問題を現世で解決した後は、自然のままに全てを委ねた心強い人生が開けてくるのです。
私どもは生きている限りは、世間の営みを疎かには出来ません。しかし仏法を聞くことが出来る今こそ、後生の解決が最重要課題になるのではないでしょうか。命がいつ終わるか分らない自分の後生の解決は、生きている今の自分でしか出来ないことなのですから。
称名念佛