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(本願寺山口別院 山口教区教務所)

   抜苦与楽 2008/12/19

熊南組法隆寺 小林智乗

 「人の一生は重荷を背負うて遠き道を行くが如し」
 徳川300年の礎を築いた徳川家康は、人生の最期にこの言葉を残して逝かれました。

 幼少期には、今川家の人質として過ごし、妻と長男を、信長の命令で泣く泣く殺したことも
ありました。戦国の世に生まれ、幾多の困難を乗り越え、逆境から立ち上り、征夷大将軍として天下を取り江戸に幕府を開きました。

 逆境を乗り越えた人の言葉だけに成る程っと頷けます。頷く反面、何か引っ掛かるのです。
私が捻くれているからでしょうか?「生涯、重荷を下ろせなかった」と告白しているように聞こえるのです。

 戦国の世は、彼の望んだ安穏な世の中になりました。人質という拘束された立場を離れ、
江戸城から天下に号令するに到ってもその重荷は一向に下ろせなかった。

 お金がないのが原因ならば、六百万両(約二兆円)の財宝を遺した家康には当てはまりません。

 人生の目的は、この重荷をおろすことでありましょう。家康は、彼が望んだ目的地に到着したに違いありません。しかし、彼の求めた目的地では重荷を下ろすことは出来なかった。安心できなかったのです。私達凡夫の求める目的地(仕事・お金・健康・地位・名誉・財産・趣味・教養・娯楽etc)は、蜃気楼のようなものです。決して重荷を下ろすことはできません。本当の幸せの素材には成り得ないのです。休まらないのです。これが私達が陥りやすい大きな落とし穴です。

 如来の作願(さがん)をたずねてみると阿弥陀様は、予てよりお見抜きでした。苦悩の有情(うじょう)(私達)を捨てず、無明(むみょう)長夜(じょうや)の灯炬(とうこ)となり、生死(しょうじ)大海(だいかい)の舟筏(せんばつ)となって、「さあ、あなたの重荷(苦悩)を私に任せなさい」と回向を首とし、大悲心を成就して下さいました。

 智慧無き障り多き我らが凡夫に「共に、我が安養(あんにょう)浄土に参りましょう」と阿弥陀様は苦悩多い娑婆を生き場に今現に生きて下さる仏さまなのです。
 

   いのちをいただく 2008/12/13

 いまは美味しいものをいただくことができる豊かな日本であります。あれはおいしかった。
美味しくなかった。まずかった。とついにげなく言う私でありますが、食べる食材、味をいただくばかりではなく、そのいのちを深く考えてみますと、食事に出てくる、お肉、お魚、野菜、お米、と多くのいのちをいただいています。仏さまからみると、すべての生き物のいのちは平等であるはずなのに他のいのちをいただいて生きています。

 しかし、実際、食事をしているときは美味しい、まずいとそんなことは忘れて食べています。
いのちをいただくということを深く見つめるとごめんなさい、そしてありがとうという思いがでてき、合掌をさせていただき、いのちをいただくという思うを深めたいと思います。多くのいのちをいただいていかされている私であったとお念仏を申すなかできづかさせていただきたいです。
 

   私の行く先 2008/11/10

 日がしずむ光景は本当に美しいものですね。阿弥陀如来様の世界を西方浄土と申します。
太陽をはじめ、すべての万物が帰するところは西とのお示しであります。

 ゆうやけこやけでひがくれて 山のお寺の鐘がなる おててつないでみなかえろ 
からすと一緒にかえりましょう という夕やけこやけという歌があります。

 お念仏を喜ばれた私たちの先輩方はただ綺麗な夕焼けで終わらず、あのしずむ夕陽に
向かい合掌し、なまんだぶ、なまんだぶとお念仏を申されていたことと思います。
娑婆の縁が終わったら、この私の人生が終わったら、いのちのふるさと、真実の世界、
先になくなった父や母、ご先祖様方がお参りをさせていただいた仏さまの世界、お浄土に
お参りをさせていただく世界があり、そこでまたともにひとつのところで出会える世界があると
阿弥陀経には説かれてあります。

 最近は、死んだらお終いですよ、灰になるだけですよと悲しいことをいう方もおられますが、
私たちは人生は終わってもいのちは終わりではありません。阿弥陀様はどうか私の国に
生まれるとおもうてくれよとお念仏の声となって私たちの上にいつでもどこでもよびかけておられるのであります。
合掌

   仏法よろこぶ 2008/10/25

豊浦組 蓮乗寺 金海明弘

 先日法事をお勤めした後このようなことを言われました。
「若院さん今日はお勤めいただいてありがとうございました。亡くなったおばあちゃんもお経を
あげてもらって、大変よろこんでくれていることと思います」
みなさんは、これを聞いてどう思われますか?
私たちは亡くなった故人さまをよろこばせるために法事をお勤めしてるのでしょうか?
亡くなったおばあちゃんは、お浄土に往き生まれて仏さまとなっておられます。
私たちは仏さまをよろこばせるために法事をお勤めしているのでしょうか?
それは違いますね。
法事というのは故人さまが命をかけて、この私にむすんでくださった大変尊い仏縁であります。
法事というのは、この私が仏法よろこぶ場であります。
では、この私が仏法よろこぶとはどういうことでありましょうか?
この私が仏法よろこぶというのは、いつもいつも仏さまに背中を向けて生活しているこの私が
故人さま命がけのご苦労があって、ただいま仏前で南無阿弥陀仏とお念仏申させていただくことであります。
すべての法事は、この私が仏法よろこびお念仏申させていただく仏縁であります。

この私が仏法よろこぶすがた、お念仏申すすがたを見て、今は仏さまとなられた故人さまが
よろこんでくださるのであります。
阿弥陀様の願いとは、この私の口に南無阿弥陀仏とお念仏申させていただくことであります。
この私の口に南無阿弥陀仏とお念仏となってお出ましくださることも、阿弥陀様のおはたらきであります。南無阿弥陀仏とこの私の口にお出ましくださるのは、この私が間違いなく阿弥陀様の救いの只中に生かされている証であります。
阿弥陀様の大きなお慈悲に包まれておることをよろこびお念仏申させていただきましょう。
南無阿弥陀仏

   いつも一緒の仏様 2008/10/01

豊浦組 蓮乗寺 金海明弘

 先日テレビで新潟県中越地震から2年が経ちましたというニュースを目にしました。
そのニュースの中で現在4歳になる皆川優太ちゃん(当時2歳)という、地震当時に
車ごとがけ崩れに巻き込まれて、母親とお姉ちゃんを亡くした一人の少年が出ていました。
インタビューの中で優太ちゃんは、「僕は大きくなったら宇宙飛行士になりたいです。
そしてロッケトに乗って天国にいるお母さんと、お姉ちゃんに会いに行きたいです」と
笑顔で語っていました。

 私は幼い彼の言葉を聞いて、彼がお母さんとお姉ちゃんのことを思う強い気持ちに感動すると同時に、おそらく彼のまわりにはお念仏のご縁に遇っている大人がいないのだなと
悲しくも思いました。
彼の中では、この世と天国とは断絶されたもので、大きくなってロッケトに乗って行かないと
お母さんやお姉ちゃんには会えないのです。
そして大きくなって宇宙飛行士になっても、お母さんやお姉ちゃんに会わないことに彼も気づく日がくるはずであります。
では優太ちゃんはお母さんやお姉ちゃんに一生会うことができないのでしょうか?
そんなことはありません。
彼が今、お母さんやお姉ちゃんに会える世界、それが南無阿弥陀仏、お念仏の世界で
あります。
人間死んだら終わりではありません。
優太ちゃんのお母さんやお姉ちゃんはお浄土に往生され仏様となられ、いつも優太ちゃんと
一緒にいてくださいます。
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、一声一声のお念仏が、大事な人が仏様となられ間違いなくこの私といつも一緒にいてくださる証であります。
 

   救わるる身 2008/09/16

10年ほど前の事、僧侶研修会において、当時医科大学副院長 村井先生のお話を
きかせていただきました。先生はお念仏者です。医者としての思いや経験など交え法味豊かな
お話をなさいました。
 「どこの浄土真宗のお寺にお参りしてもご本尊様(阿弥陀如来様)お立ち上がり、南無阿弥陀仏のお心そのまんま。」「いつ見ても大悲の如来(おや)は立ちどうし 救わるる身は寝たり起きたり」と詠われます。

 授業の合間、医学生たちに「君たちが将来一人前の医者となり自分の診察室を持つ様に
なった時に君たちが立派な椅子に座り患者さんを小さな粗末な椅子に座らせてはいけない、
患者さんというのは、年輩の方も多く病を抱え不安と苦しみの中から朝早くから
2時間、3時間待ち続けやっと入って来られる方々にこそ大きな椅子に座ってもらいなさい。
医者の私たちは背中がと言われたら自らが背中に回り足がと言われたら自ら足まで降りて
診察する、働く側は座っちゃおれんのだ」とおっしゃいました。

 如来様はこの私を罪悪深重煩悩凡夫と見抜いた上で喚声(よびごえ)となり名号(なのり)
となり光となって今この私のいのちにとどいてくださいました。南無阿弥陀仏となって私と共に
人生を歩んでくださいます。この私の為にお浄土というすばらしい世界を準備万端調えて
くださいました。

 私の往生浄土については私の生き方、私の手柄でない、私を必ず浄土の仏に生まれさせる
と、働きづめ働いて下さっておられたのは如来(おや)様の側でありました。
名号独用如来様一人働きであります。

 「いつ見ても大悲の如来は立ちどうし 救わるる身は寝たり起きたり」
 「煩悩にまなこさへられて摂取の光明みどれども大悲ものうきことなくてつねに
 わが身をてらすなり」高僧和讃より
称名
豊田組 正法寺 白石智明

   阿弥陀さまは智慧と慈悲の仏さま 2008/07/14

 阿弥陀様は智慧と慈悲の仏様です。お仏壇のロウソクは灯火は仏さまのお智慧のはたらきを
あらわし、お花は仏さまのお慈悲のはたらきをあらわします。ある方が仏さまの智慧を
お父さんのお心、お慈悲はお母さんのお心と味わった方がおられましたが、確かに父親は
家族を導き、母親は家族を温かく包み込むというところからそのような味わいをされたのではと思います。

 仏さまの智慧は私たちが世間的な知恵や知識とは違うようです。仏さまの智慧は真実の目覚めさせるように導き、仏さまのみ教えに導かれて、真実に心をひらかせていただくことであります。それはたくさんの知識を得るとか、勉強ができて賢くなるとかはあきらかに違うのであります。
いままで気づかなかった、多くのお陰様の世界に私たちは支えられているということに気付かさせていただく眼をひらかせていただくことであります。

 慈悲は大慈悲ともいい、仏様は私の喜び、悲しみ、痛みを我がことのように喜び、痛み、
悲しむ同体のお慈悲で私たちを温かく包み込むのです。親は子どものことを思いどおしで
あるように阿弥陀さまはどんな人も一人一人をかけがえのない仏の子として大きな慈悲のお心で私たちを阿弥陀がここにおるよ、どうか真実に目覚めてくれよ、そして南無阿弥陀仏と
申す人生を送っておくれよ、呼びづめに呼ばれておられるのです。
 

   阿弥陀さまの呼び声 2008/07/01

 悲しい時、うれしい時、さびしい時、「南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏」とお念仏を申しましょう。
わたしの気持ちをわかってくださる阿弥陀さま。わたしの口から「南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏」と声となってきてくださる阿弥陀さま。そんな力強く温かい阿弥陀さまの呼び声に導かれながら、私たちはこの厳しい人生を歩まさせていただかなければなりません。限りのあるいのち、
生かされているいのち、仏さまから願われているいのち。私が仏さまのことを忘れていても
阿弥陀さまはいつでもどこでも私はあなたを忘れはしない。どうか限りのあるいのち、
南無阿弥陀仏を拠り所にしてお念仏を申す人生を歩んでおくれよと阿弥陀さまは呼びつづめに呼びかけているのであります。

 いつでもどこでもわたしのことを思ってくださる方がいるというのは本当に心強いことであります。人生、孤独だと思うときも一人ではないよ、「阿弥陀がここみおる。阿弥陀がここにおる。
心配することは何もない」と南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏とお念仏の呼び声となって私たちの
うえに呼びかけてくれます。

 だれからも相手にされなくってしまったとしても「私がいるからね。心配しないでね。」と言ってくれるひとがいると生きていけるのであります。

 一人ではないのであります。阿弥陀さまがいつでもどこでもいてくださるのであります。
 
合掌