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(本願寺山口別院 山口教区教務所)

グラフから見た祖母の思い 2014/8/16

本願寺派布教使 浅野俊榮 

 ちょっとした思いつきから、曽祖父以降の親族全員の誕生と死亡の年月を戸籍謄本から調べ、200年に及ぶ平面座標の上にグラフ化してみました。幼い頃から聞かされてはいましたが、グラフの中から祖母の悲しみと苦しみの状態が見えてきました。人生には悲しい事・苦しい事・楽しい事など、誰にも話せる事から心の奥に秘めている事まで、様々な事が起こります。特に悲しみや苦しみは、何が起こっても当たり前の事として受け入れていく心がないと、深い苦悩と悲嘆を抱えたままの人生で終わってしまいます。

 悲しみや苦しみは人を成長させる力になりますが、なぜ私ばかりが・・と思えば後ろ向きの力になります。それが私を育てるご縁であったと気付けば、その出来事を喜べる世界が生まれてきます。祖母は、夫と4人の子を先に亡くしました。その死亡年月を数字面から見ても相関がピンと来ませんが、グラフに表してみると、40歳台で2年おきに3人、60歳台に3年で2人と、悲しみが癒える間もなく新しい悲しみが覆って、祖母のどうしようもない思いを実感として受け取れます。

 この世の全てのものは、どこかで一つに繋がっていて、他との関わりなく単独で存在する事は出来ません。この様な在り方を因縁生といい、互いに因となり縁となって、この世に生じ今の私が存在するのであって、私が先に在って縁を戴いているのではないのです。また、縁の良し悪しを言いますが、起こる事自体に良し悪しはありません。私という自己の存在にとって、都合が良いか悪いかの分別をしているだけです。縁の良し悪しに関わらず縁によって今の私が在るのです。仏教も同じことで、過去世において教えに遇わなかったから、今の迷える私が在るのです。

 祖母は寺に嫁ぎ、仏法のご縁を得たのでした。祖母は、「多くの悲しみ苦しみに遇わなければならなかったのは、前世からの因縁であろう。どれほど悪い事をして来たか分からん。阿弥陀様がこれでもかこれでもかと、私に目覚める手立てをお与え下さったに違いない。有り難いお育てを戴いた」と、私に話した事がありました。その様な出来事が「当たり前」の事だったと、受け入れられる迄にお育てを受けたのです。それが縁起の法への目覚めであり、お悟りを戴いた事であり、ご信心を戴いた事でもあります。そして祖母のこうした出来事を縁として今の私が存る事を、亡くなった親族全員が教えてくれています。グラフを書いて眺め思考する私も、グラフを構成する一要素であることに気付かされたのです。
称名念仏

私の新しい行動規範 2014/7/15

本願寺派布教使 浅野俊榮 

 ある日のこと、家内が戸棚を開けて物を出したまま、片付けずに忘れているのを見て、家内に一言、「何かしたら、その手で元の様に片付けておけ、誰かの手にかかるぞ」と。
その一言の後に、ふと思い出したのが、「物を使ったら元の位置に戻しなさい。誰かの手にかかるよ」という母の教えでした。小さい頃から教えられてきた事は、日頃は忘れていても何かを機会として思い出され、それが今の自分の行動規範になっている様です。

 行動規範というと大変難しいようですが、国語辞典には、行動や思考する上での判断や評価等の依るべき規準とあります。私どもはこの世に生まれて以来、家庭や学校や社会で見聞きし教わったことが身に沁み着いております。それが私どもの次の行動を起こす際の規範になり、場合によれば行動を促し、場合によれば抑制する力にもなっています。

悟りの目から見た世界、真実の世界を法界と申します。それは私どもの認識範囲を超えた世界です。とは言っても、私どもはその法界の外にではなく、包まれて存在しているのです。しかしながら、私どもが認識できる範囲は、この世に生まれてわずか数十年の経験という小さな枠の中に入ったものだけなのです。残念ながら地獄とか極楽という世界は、私どもの経験の枠の世界をはるかに超えた世界です。その様な経験した認識範囲から遠く離れた世界を、信じろと言っても所詮無理な話で、これを私どもの認識範囲に取り込まねば、その意味を納得することはできません。浄土や仏様の存在に疑問を持つのは、認識に大きな隔たりがあるからです。

私どもが救われるのは、仏様の教えによって、法界の働きに目覚めることですが、現在の社会においてはそれが出来にくくなっています。宗教教育を受けていない世代は、仏様の教えから自分を見るのではなく、自分の経験の範囲から仏様の教えを見ているからです。法界の中の科学的な経験の範囲から、お釈迦様の悟られた広大な法界を見ても認識できるものではありません。己を空しくして謙虚に仏様の教えを聞く、聞いていくところに法界を認識する智慧を恵まれるのです。この智慧を恵まれることは即ち縁起の道理に気付かされ、私の在り様が明らかになることです。それによって、世の中のあらゆる存在が自分と関わり生かされてあったことが自覚され、感謝の思いが生まれてきます。それが私の新しい行動規範となって報恩の活動へと転換されていくのです。仏様の教えは、人間社会の知恵や知識の上に、更に法界を認識できる智慧を与えて下さるのです。
称名念仏

浄土の出店 2014/5/1

 本願寺派布教使 浅野俊榮 

 九十年近い歳月でかなり傷んでいたご本尊と親鸞聖人、蓮如上人のご絵像を新しく掛け替えました。お仏壇の中に、決まった仏具を決められた通りに置いて、お花を飾り蝋燭に点火すると、尊崇の念が湧いてきます。ご本尊を戴に西本願寺にお参りした機会に、奈良を訪ね国立博物館でガラスに囲まれた国宝の阿弥陀佛像を見ました。浄土真宗のご本尊は阿弥陀佛なのですが、味気なく展示された姿に、彫刻としての美しさは感じましたが、手を合わすことはありませんでした。

 奈良時代の国宝の観音像がフランスに渡り一般公開され、その様子がテレビで放送されました。フランス人からは、「素晴らしい彫刻だ」という感嘆の声が聞けましたが、彼らが神を敬う様なそんな動きは見えませんでした。もし観音様の前を、寺院の様に仏具やお花でお飾りしていたら、少なくとも違った反応があったのではないかと思いました。

 親鸞聖人は、佛様の在り様を二つの佛身で説かれています。その一つは法性法身と称して、色も形もなく言葉では表現できない宇宙の普遍の真理であります。もう一つは方便法身と称して、宇宙の普遍の真理より人格的なかたちを取って、阿弥陀佛となって現れていると示めされます。また逆に、その阿弥陀佛の働きを通して、宇宙の普遍の真理が窺われるともお示しです。適切な例ではないかも知れませんが、会社には社風というものがあります。それには実態が在りませんし、また言葉では十分に説明を尽くす事ができません。社風は長い時間の中で醸されたもので、経営方針や製品、社員の言動等から、その会社の社風が自然に現れて、それが窺われます。

宇宙の普遍の真理の働きは、お釈迦様が説かれたお経によって教えられます。阿弥陀佛の姿や浄土の様子、そして救いの誓いである南無阿弥陀仏等が説かれています。宇宙の真理は宇宙の法則であって、お釈迦様が創られたものではなく、お悟りになったものです。よく佛様がいるかいないか等と申しますが、それは私どもが、お経の内容をおとぎ話の様に思っているからです。悟る力のない私どもには、お釈迦様の教えを素直に戴く外に真実に触れる手立てはありません。
この度、お名号をご本尊にお迎えしました。それは只の掛け軸なのですが、尊前をお飾りする事によって、救われて往く浄土の出店がお仏壇の中に現れた様で、礼拝の心が起こります。博物館に展示される佛像も方便法身のお姿ですから、彫刻の美しさを鑑賞すると共に、せめて一礼をする気持ちになる様な展示方法があったらいいなと思うのです。
称名念仏

釈尊と阿弥陀佛が示された道 2014/2/4

 本願寺派布教使 浅野俊榮 

 私は骨董品に少し興味があり、テレビ放送の「なんでも鑑定団」を見るのが好きです。出場者は手持ちの物品を本物と期待して、鑑定してもらうのですが、なんと偽物が多い事でしょうか。昔から本物を求めようとした人が多くて、その為に偽物が沢山作られたのだと思いますが、真面目な模造品から劣悪な偽物まで色々ある様です。自分の思い込みで偽物を大切にしたり、知らずに本物を粗雑に扱ったりもします。私も古い韓国製の壺を、畑の隅に放置していた事があります。

 「苦しくとも、偽物に、飛びつくな」と、ある寺院の山門に掲示してありました。確かにその通りで、どれだけ苦しくても占いや変な宗教に頼るのではなく、正しい教えに解決の道を求めなさい、と言っているのです。しかし、正しい教え(本物)が誰にでも、すぐに分かるのであろうかとも思うのです。仮に本物が分かったとしても、そこに至り着くには多くの道があり、どの道を選ぶかに至っては、先人の導きがなければ極めて難しい選択になると思うのです。

仏教を学問し修行したからといって、涅槃の悟りが得られるのではありません。私どもの迷いの側から、どれだけ真理を追究し論理を構築しても、所詮は迷いの側のものでしかないのです。法然聖人は中国の善導大師の理論と比喩を受けて、「娑婆から釈尊がそのまま往けと言われる道を、浄土から阿弥陀佛がそのまま来たれという道を、信じて進んで往くのである」と、念仏の大道を教示しておられます。親鸞聖人は、聖道自力の求道を20年間もされましたが、なお自らの煩悩性を超えて悟り得ず、遂に法然聖人の念仏の教えに出遇われたのであります。それは、聖道自力の道では、私達の様な凡夫は涅槃の悟りに至り得ないことを明示しています。

本物を選ぶといっても、私達の知識ではどれが本物かが分かりません。いつも本物を教えられていれば、それ以外は全て偽物と判断できます。悟り得ない私達には、浄土に生まれる正しい教え、釈尊と阿弥陀佛が示された道、即ちお念仏の大道が用意されてありました、と教えられています。しかしながら、浄土真宗の教えにおいては、本物があまりにも易しく手元にあって、本物の有り難さが分からずに、返って偽物に迷って行くことが多くあります。私達には常に疑いの心が湧いてきて、用意されたお念仏の大道を何の計らいもなく歩んで行くことでさえ、如何に難しい事であるかを教えられます。正しい教えを聞き続けて行きたいものです。
称名念仏

初夢に感じたこと 2014/1/21

本願寺派布教使 浅野俊榮 

 今年は珍しく初夢をみました。それは次の様なことでした。私が外出から戻ると、母が何かをしている音が聞こえるのですが、母の姿は見当たりません。それでもその音を聞いて、心底から安堵するような、ホッとするような気持ちの動きを感じたのでした。
姿は見えなくても頼れる人が近くにいて働いている音が聞こえる、そんな音を聞きながら眠ってしまった様な多くの記憶が、その状景とともに懐かしく蘇ってきます。

 悪ガキの頃は、夕方になると私を呼ぶ声が聞こえ、遊んで汚れたままで何の心配もなく家路を急いだものです。親は汚れたままを叱るでもなく迎えてくれました。私どもには必ずこの生涯を終える時が来ますが、どこに向かって行くのでしょう。自己中心の煩悩まみれの私を、そのままでいいよと迎え入れてくれるところがあるのでしょうか。

 仏の教えと本当に出遇う為には、私の方に問がなければなりません。「仏教は何の為に在るのか」ではなく、「私は一体何の為に生きているのか」を問うのです。また仏の教えを聞く時は、たった一人の自分に戻らなければなりません。この私はそもそも何者で何の為に生きて、この世を終えるとどうなって行くのだろうか、という命の要を問い聞くのです。この霊的な大宇宙を一人ぼっちで旅をしている私は、どこへ向かって行くのだろうかを問わなかったら、阿弥陀佛に救って頂くということも分かって来ません。たった一人になって問うのです。只のんべんだらりと人の真似をして聞いても答えは得られません。

 弘法大師は、大宇宙における命あるものの生死の無限のドラマを、「生まれ生まれ生まれ生まれて生の始めに暗く、死に死に死に死んで死の終わりに冥(くら)し」と述べて、生死を無限に繰り返しても悟りに至り得ない苦しみを悲嘆しておられる様です。一方、親鸞聖人は、「生死の繰り返しから抜け出して浄土に往生するには、阿弥陀佛の救いの願いが起こされた謂れを、そのまま聞くことである」とお示しです。聞くことは、阿弥陀佛が「安心して任せよ」と働いて下さることに、自分のそのままを「安心してお任せする」ことです。私に「任せよ」が届き、「お任せ」しますの心が決まった時に、阿弥陀佛の元に帰って往く、浄土に生れて往くことが定まりますが、私の煩悩が無くなるのではありません。親様(阿弥陀佛)は煩悩のあるがままを浄土に迎えて下さいます。親様の救いの願いは、お念仏の声となって私に届けられています。姿は見えなくても、私に安堵の心を与えて下さっています。
称名念仏


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